都市の形而上的光景

峯村敏明

かつて、ロシアの映画監督タルコフスキーは未来都市の景観を象徴する場面のために東京都心の錯綜する高速道路の映像を用いたことがあった。まだ高度成長期のさなかにあった1970年前後の東京の姿である。
しかし、今日の東京では道路網は飽和状態に近づきつつあり、かつてのようなダイナミックな工事現場に出会う機会は少なくなっている。建設の勢いは後退し、成熟から平衡へ、さらには停滞の気配がしのび寄る。私たちはエネルギーを失い始めたのだろうか。

だが、ミネルヴァの梟(ふくろう)は夕暮れに飛び立つ。物質的・身体的なエネルギーが衰えを告げるとき、人間の知恵と感性は別種の高揚に向けてはばたき始めるのである。現実の槌音とは異なる、反省と詩と芸術の響きに耳を澄ませて。

鈴木弘之が東京の高速道路の建築現場をカメラに収め始めたのは、まさにこの大都市がバブル経済の何度目かの破綻を経験し、停滞期に入った後のことだった。副都心・新宿の近くで目にした工事現場の偉観。何度も目撃していたはずの光景が、ある日初めて彼の心を揺さぶった。なぜだろうか。彼の属している社会全体にもう一度活力がよみがえって欲しいとの思いに駆られたのだろうか。かつて、パートナーのコシノ・ジュンコがキューバでプロのダンサーを使って壮大なファッション・ショーを敢行したとき、炸裂する肉体と衣装と光と音の競演に感動のカメラを向けたことで写真家としての資質に目覚めた鈴木のことである。東京という空間にまだ熱いものがたぎっていたのかという驚きが、彼の情熱に火をつけ、新しい課題を与えただろうことは想像に難くない。さまざまな分野でプロデューサーとして活躍する鈴木は、本質的に前向きの人間であり、人と人、集団と集団を結び、新しい次元を切り開いてゆく天賦の才能を持っている。工事現場を前にしたとき、人と社会を奮い立たせるイメージ・プロデューサーでもありたいと願ったのかも知れない。

だが、鈴木の芸術的感性は、物質的・社会的なプラス志向としてだけでは説明のつかない振舞いを見せる。作品を見て欲しい。一見したところ、特に初期の作品では、鉄とコンクリートの量塊が激しくこぶしを突き立て、連結間近の道路が空間をうねり、激突の予感で打ち震えている。クレーンが中空を突き刺し、光を破裂させる。工事現場の映像とはいえ、そこにみなぎる物質の躍動感、切迫感は並ではない。こうした物量的な表現だけでも、私たちの目を釘付けにして余りあるものがそこにありはしないか。

けれど、鈴木のカメラはもっと繊細であり、あえて言うなら、形而上的である。彼は本当に鉄とコンクリートの固まりを写しているのか。高速道は連結し、曲線は完結しているのか。否。カメラが捉えているのは、中断であり、断面であり、重みを剥奪された量塊の浮遊であり、ぽっかり空いた虚空間であって、実体をなした物の世界ではない。写し出されているのは、むしろ世界の凍結である。宙吊りされた時間である。実社会の建設という現実の工程に組み込まれた工事現場なのに、カメラはしばしば意味不明の数字や役割を忘れた文字盤に向けられる。見学者の子供が迷子の姿になる。時にはカメラ自体が迷子になって、水溜りに映った空と建造物の倒立像に目を奪われている。

つまり、鈴木弘之の目は現実の建設現場に激しく反応しそれを激写していながら、同時に、現実の時間と空間の秩序からぽろりとはみ出た非存在の影をこそあぶり出しているのである。かつて、二十世紀最高の画家デ・キリコは、現世的・未来志向的な町だからと敬遠していたニューヨークを訪れ、逆に「摩天楼の形而上的光景」を発見した。いま、鈴木の写真はそのことを私に思い出させてくれる。

(2010年3月30日)